文字を見る機会といえばテレビやケータイ、またはパソコンのようにモニタを通して触れる事が多い昨今ですが、このテレビもケータイもパソコンも「形になって残る活字」でもなく「誰にでも簡単に使うことができない写真植字」でもない。すべては誰にでもお金を払えば使うことができる「フォント」が使われている。
昔話になってしまうのだが、1980年代まではパソコンやケータイなんてものがここまで普及していなかったので、文字といえば誰にでも使えるものでもなく、ほとんどの方が「活字」を目にしていた。新聞や本(雑誌・文庫本・マンガetc)であり、テレビももちろん含まれる。この当時のテレビや本に使われていた文字はすべて、写真植字といわれる誰にでも気軽に使えるものではなく、ある一定の職種の方々しか使用できないものであった。新聞だけが昔から変わらず「活字」が使われている現状だ。
あ。何が言いたいかいうと、「昨今の活字離れ」なんて話はではなく、タイトルになっている「文字の信用・信頼性」についてなんです。
「昨今の活字離れ」についてはコレを参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%AD%97%E9%9B%A2%E3%82%8C
何を議論したいのかが不明。単なる懐古主義なのか?
あー、また横道にそれるとこだった。まだまだ語っちゃいますよー。
私がここで言いたいのは「誰にでも使えなかった文字」が「誰にでも使えちゃう文字」に以降してきたことによる「文字に対する信用性・信頼性」なんです。
もちろんプラス面を見れば、
○誰にでも印刷物が作れて広く配布することだってできる。
○自分の意見を言葉にしてタイピングすれば、他人と同じフォントになって自分の意見を正当化できる。
他にもいいことだって沢山あるだろう。
でもこのプラス面をそのまま「間違った」という言葉を入れるだけで逆転しまう危険性をはらんでいることがお解りになるでしょう。そう、
○誰にでも“間違った”印刷物が作れて広く配布することできる。
○自分の“間違った”意見を言葉にしてタイピングすれば、他人と同じフォントになって自分の意見をより正当化できる。
いや、こんな「言葉に対する信用・信頼性」の話はパソコンというものが普及され始めた時に沢山議論されてきたのだろうが、私が心配しているのは、もっとミニマルな「文字に対する信用・信頼性」であり、どうすれば1980年代以降のように信用・信頼が得られるのだろうかと。その社会に基づく「文字」のシステムについて考えてみたい…。
いや待てよ。これこそ単なる懐古主義なのか?
それともグーテンベルグの活版印刷が登場してきた時代から、ずっと議論されてきた論争と繋がってくるのだろうか?
今さら掘り起こす内容でもないのか?
まだ今の私には難しいのか。この議論は。解り始めたと思ったのだが…。
もう少し考えてみたい。新しい「文字」の地平を求めて---。
これについては間違いだと自己解決しました。
失礼いたしました。
「悪い事例」
http://com4t.seesaa.net/article/22762597.html
を読んでやってください。反省。