07/02/16

■ 忘れる、という行為。

私の場合、書体づくりにすごく時間かけるのですが、一番長くかかった書体は、今アップしているフリーフォントの中でいうと「Quiiline Script Thin」で、そのほとんど時間は「忘れる」ための時間なんです。たぶん10年間ぐらいかかっていると思います。。。

「アラそうですか」と言わずに、フォントに興味のある方なんかは、とりあえずおつきあいくださいませマセ。

で、その「忘れる」とはどういうことかというと、作っている時間というのは、どの書体もあまり差はないのですが、その書体の形を「客観的」に見るためには、その書体を「見ない」のが一番だと思っているので、時々無性に見たくなっても我慢してるんです。「まだあの書体のカタチを覚えているけど確認しなきゃ!」的な思いになっても我慢する。ここで見てしまっては客観的(というより離れて見ると言った方がいいかな?)になれないので。

たまに全キャラクターが完成してて、「現時点で最高の出来だね!」と思い「このままアップしてまえ!」と、嬉しさのあまり気持ちが先走ってしまうことがあるのですが、ココはぐっと堪えることができるオトナにならなきゃと思い、グッと我慢しています。そうこうしてる内に何年も経ち、ある日突然、違う書体や仕事のデザイン作業をしてる最中に、「アレ?だいぶ前、たぶん5年前に作成した、あの書体ってどこまで作ってあったっけ?」的な具合になってると、そろそろ解禁状態になってて、そこでやっと「他人の目(的)」になって見ると、「なんじゃコレは〜〜!」となってて凹みながら修正してることに。でも逆に考えて、目が肥えたと思いながらも修正してたりします。

だから私の書体の時間のかけ方は、とても効率の悪い、頭の悪い作り方をしてると思います。でもこの姿勢は誰がなんと言おうと変えたくはありませんね。効率なんかより、時間なんかより、文字のカタチを最優先したいと思っていますので。

たぶん、私が30才の時に作っていた欧文書体がやっと遠くから眺めることが出来たので只今改良&微調整中です。あるキャラクターのエレメントだけですが、拡大してお見せしておきます。

fontgraph.jpg

でも、いつリリースするかはわかりませんよ。今年中にはと思ってはいるのですがね。こういう性分なんで、どうなることやら。
posted by KATAYAMAC at 20:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | Font

07/02/09

■ seesaaリヌは他人事ではないような

このブログはシーサーというブログサービスを使っているのですが、今回またリニューアルを行い、システム改善をしたとの事でありますが、MacOS9を使っているボクとしては、少々悲しい出来事になってしまった。記事投稿はこうやって出来るのですが、いつも日課にしていたアクセス解析を見ることや、ブログデザイン変更等ができなくなってしまった。

このシーサーブログの推奨環境がMacOSXからで、MacIEは推奨されてないとの事。でも現在MacIEでも表示されるようにと改善を計っているとのことなので、待つしかないですね。だって無料で使っている身ですから---。

ボクも無料でフォントを配っている身からすると、今回の件は複雑な気持ち。シーサーを責めるとそのまま自分に返ってくるみたいで。

シーサー使用者から今回のリニューアルについて非難の声が沢山出てて、それに目を通すと悲しいというか怖いというか。お金払ってお店出している方とかは死活問題だろうけど、一般のボクみたいな日記とか無料配布とかしてる方とかは、そんな上から目線で責めることはできないんじゃないかなぁ?と思ったりします。

「そんなに言いたいのならだったらお金払ったら?」とね。

ボクは待ちますよ!シーサー関係者のみなさん。
いつもご苦労さまです。
でももし改善されなければ、他のブログサービスに移っちゃいます。だって選ぶ権利はこちらにあるワケですから。
posted by KATAYAMAC at 12:10 | Comment(1) | TrackBack(0) | Diary

07/02/08

■ 言語の内と外

いつ書いたか忘れてしまったけど、以前日本語は内部的で、英語が外部的なことを、さもどこかで、または誰かが書いたような言い回しで書いた覚えがあるんだけど、あれはただ呆然と私が思った(感じた)までで、ちゃんと根拠がある話ではないので、あしからず。この前知り合いとそんな話になって、「そういえば昔、このブログか前やってたサイトに書いてたよなぁ。断言しちゃってたなぁ」と思い出したので、今頃になって断り文のしたためを。

でも、調べたワケでもないんだけど、西洋圏の言語は、相手(外部)に対して作られてる要素が大きいと思うし、東洋圏の漢字を扱う言語は、自分(内部)に対して作られてる要素が大きいと思うんだよね。すごくいい加減であいまいな論理から始まっちゃってるんだけど、英語って話すことの方が重要というか、発音から始まって、それからアルファベットに置き換えて、文字に表すような気がするんですよ。で、東洋圏の言葉(中国・日本)は先ず文字で表してから、発音するのではないかと。

この論理があっていれば、発音から始まる西洋圏の言語は、相手(外部)に伝えてから始まる言葉であり、文字で表してから始まる東洋圏の漢字を扱う言語は、内部的発想から始まる言葉ではないかと。

根源が内か外かなんて、きっぱりと証明できる話ではないと思うんだけど、いつも欧文と和文を混在させて文字組をしている職業柄か、なんでも原点を見つめるのが好きな性分なのか、そんなことを考えてしまうんですよね。

また、このことについては語りたいと思います。
仕事で疲れて、仕事以外のことを考えたくなった時に。。。なんてね。


そういえば、またseesaaがリヌってますね。今日見たらデザインが変わっててびっくらこきました。
posted by KATAYAMAC at 00:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | Font